【問題1】
わたくしの目には、都市としての東京も大阪も大同小異(注1)の感があるのだが、日々まあこんなものかと東京と大阪を往き来して暮らしていると、ときどき《小異》の部分であっと驚く発見をすることがある。
先日、東京のある雑誌がもっとも《大阪らしい》都市風景を多角的に撮るという企画を立て、どこがいいだろうと相談を受けたわたくしは、迷わず大阪湾岸に広がる工場群と港湾施設と海風景をその一つに選んだ。(中略)
ところが、東京の編集者やカメラマンの驚いたこと、驚いたこと。いわく、なぜこんな岸壁(注2)へ一般市民が出られるのかというのだが、なぜ、と尋ねられてこちらが驚いた。出られるのが当たり前だとわたくしは思っていたし、現に釣りをしている人たちがいるのである。
しかし東京では、岸壁という形で海に近づけるのは、日之出桟橋か竹芝桟橋の水上バスやフェリーの発着場だけだという。
今度はわたくしの方が、しばし考え込むことになった。東京も、大阪と同じく長い海岸線を持つ、同じように港湾施設や倉庫、工場がひしめき、埋立地も多い。そのすべてが埠頭や桟橋という形で岸壁を持っているが、そのどこにも出られないというのは、嘘か真か。
これはどうやら真らしい。海岸線がすべて企業の私有地ないし港湾局の管理地になっているのは大阪と同じだが、違いは閉じているか否かである。東京はすべての出入り口が閉じられていて、大阪はほとんど開いているのである。
(高村薫『半眼訥訥』文藝春秋)
(注1)大同小異:細かい違いはあるが、だいたいは同じであること
(注2)岸壁:船から荷物の積み下ろしができるように、海岸に造られた壁
【問1】この文章の内容として最も適切なものはどれか。
1.大阪らしい都市風景は海岸線の工場群と港湾施設で、東京の都市風景と似ている。 |
2.大阪人である筆者にとって、東京では海岸の出入り口が逆向きであるのは驚きだ。 |
3.東京人は一般市民が岸壁に出られることを知らないが、大阪人は皆知っている。 |
4. 同じ大都市でも、大阪は海岸線の岸壁に自由に出入りできるが、東京はできない。 |
【問題2】
要するにこれは昔のごく常識的な惣菜(注1)であって、何も母親に限らず隣りのおばさんでもうちの下女でも手軽に作り、また町のおかず屋にも並べられていたしろもので、今だってちょいと一言女房に頼めば家でもすぐ食べられる料理のことではないか。
ただ、見た目は同じであっても、私にいわせて貰えば今のこれらの料理の食材は、郷愁のなかの昔の味とは似て非なるもの、というべく、第一野菜の味からして全く別物なのである。戦前はどこの家でも野菜をたくさん食べたし、需要とともに味の注文も多ければ、農家も美味しい野菜作りに情熱を込めたものだった。(中略)
ところで、男性がおふくろの味にあこがれる原因に、主婦の家事の手抜きと子供中心の献立がいわれるが、私もその手抜き主婦の一人としていわせて頂くと、味覚というのは甚だ流動的かつ身勝手なものだといえないだろうか。つまり生活全般、現代と密着している人間の口に合うものといえばしょせん現代の味覚であって、今はもうないものねだりともいえる昔の味ではないのである。
おふくろの味ムードに付き合って、漂白(注2)のため皮が固くなり味を失った里芋を、全国画一のだしの素を使って煮ころがしてみたところで味気なさを噛みしめるばかり。
(官尾登美子『もう一つの出会い』新潮社)
(注1)惣菜:おかず
(注2)漂白:日や水に当てたり、薬品を使ったりして白くすること
【問2】この文章の内容として最も適切なものはどれか。
1. おふくろの味といえば里芋料理だが、今の里芋は昔の里芋より味が薄くて味気ない。 |
2.おふくろの味は昔の時代の物で、現代人はそれを物珍しく感じているだけである。 |
3.男性はおふくろの味を懐かしむが、同じ料理を作っても今は昔と同じ味にはならない。 |
4. 昔と比べて、今の料理が美味しくないのは、主婦が手抜きをしているからである。 |
【答え】
【問1】
4. 同じ大都市でも、大阪は海岸線の岸壁に自由に出入りできるが、東京はできない。
【問2】
3.男性はおふくろの味を懐かしむが、同じ料理を作っても今は昔と同じ味にはならない。